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歴史暦:古今東西、今日の出來事

世界が心配、日本が心配、世界のなかの日本が心配

02/19:歴史におもふ「日本人の二つの合戰

Art of Heart ∈ 思考 69 空想 ∋ Word of World
 

古今東西 02/19 この日に起こった事

 
今日ではやくも今年が始まって五十日が過ぎた。残りの今年は數へるまでもなく315日。
春分の日まで後一ヶ月あまり。窮乏人には春が待ち遠しい。

0197/0219

Emperor Septimius Severus defeats usurper Clodius Albinus in the Battle of Lugdunum, the bloodiest battle between Roman armies. 
= Début de la Bataille de Lugdunum, actuelle ville de Lyon, qui avait embrassé la cause de Clodius Albinus.


0356/0219

Emperor Constantius II 031761 issues a decree closing all pagan temples in the Roman Empire.
=l'empereur Constance II publie une loi qui interdit tout sacrifice aux dieux païens, sous peine de mort.

{人の名前くらゐ各國語共通にしろよ、と云ひたくなる。こんなのはまだ解りやすいが。

 

1184/0219[壽永03/01]:源平合戰:宇治川の戰

宇治川の戰とは、「木曾冠者」源義仲115484と「官軍」となった鎌倉方の源範頼115093・源義經115989との琵琶湖のあたりでの戰爭。



:寿永二年の七月(以下の和數字による月日は日本の舊暦の月日)、平家打倒のために信濃國で擧兵した源義仲115484は數萬の兵を率ゐて上洛。その義仲軍は亂暴狼藉を働き、皇位の繼承をめぐって077後白河雅仁112792法皇と對立するやうになった。
:九月に、義仲軍は備中國の水島の戰で大敗、後白河は義仲を見限って、十月、鎌倉の源頼朝114799に東海道東山道の支配認可の院宣を下した。
:十一月、起死回生をはかるべく義仲は院御所の法住寺殿を攻め、後白河を幽閉して政權を手にした=法住寺合戰。
:だが、孤立感の深まる義仲は平家へ和平を打診するが、拒否される。
:十二月、義仲は後白河に強要して頼朝追討の院宣を發出させ、翌寿永三年一月、征東大將軍に任命。
:一月二十日、頼朝は近江にまで進出させてゐた範頼・義經に義仲の追討を命じた。

この合戰の時、入京時には數萬あった軍勢は一千騎あまりに激減してゐた。義仲の腹づもりは、平氏との和平交渉とともに後白河法皇を奉じて、北陸へ下るつもりであった。が、關東が飢饉で兵力集まらず、攻め寄せる軍勢一千騎あまりといふ報に接して、ならば迎へ討つべしと考へを變へた。が、實際は情報に反してゐた。その事を義仲が識ったのは十五日の夜で、その翌朝には範頼が北陸道の出入口となる近江の瀬田を制してゐた。
:義仲は、配下の四天王の一人、今井兼平に兵五百をあたへ瀬田の唐橋へ向かはした。また、兵三百で宇治を守らせ、自分は百騎ほどで院御所に籠もった。
:一月二十日、範頼は大手軍三萬、搦手の義經軍は二萬五千で宇治を攻め立てた。
:義經軍は一番乘りをめざして宇治川へ馬を乘り入れる。『平家物語』でもつとに有名な、佐々木高綱116014と梶原景季116200の戰陣爭ひが演じられた場面だ。
:義仲軍は必死に防戰したが所詮、多勢に無勢、たちまちに破られて、板東武者たちは都へ殺到する。
後白河法皇を連れて西國への脱出をはかるべく向かふ義仲を、義經はみづから數騎とともに追撃、院御所前で追ひつき、義仲を追ひ拂ひ、後白河を救出する。
:後白河を失った義仲は今井兼平に合流すべく瀬田へ向かふ。瀬田で戦ってゐた今井は宇治方面の敗北を聞き退却、粟津に來たところで義仲と遭遇、二人は北陸への脱出をはかるが、これを範頼の大軍が拒む。義仲軍、わづか數騎となるまで奮戰するが、つひに義仲は顏を射られ討死、今井もその死に殉ずるの自害に果てた。
:かうして、木曾義仲源義仲115484の物語が終り、次は後白河法皇と鎌倉將軍源頼朝114799との確執、頼朝と弟たち=範頼や義經との悲劇的な兄弟物語へと移っていく。


大塚春嶺 『宇治川先陣争図』 高松市歴史資料館蔵

宇治での高綱と景季の戰陣爭ひの場面は平家物語ひいては日本文藝のなかでも屈指の名文章とされてゐる。引用しないではすますわけにはいかない。が、こゝでも小林秀雄190283の講談調でまづは語ってもらふことにする。かつて紹介した『實朝』と同じ頃、太平洋戰爭眞っ直中の1943[昭和18]年に書いたものだ。

「先駆けの勲功立てずば生きてあらじと誓へる心生食知るも」
これは『平家物語』を詠じた子規の歌である。名歌ではないかも知れないが、子規の心が『平家物語』の美しさの急所に鋭敏に動いた樣が感じられ、詩人がどれくらゐよく詩人を知るか、その見本のやうな歌と思はれておもしろい。
 平家のなかの合戰の文章は皆いいが、宇治川先陣は好きな文の一つだ。盛衰記でもあの邊りは優れた處だが、とても平家の簡潔な底光がしてゐるやうな美しさには及ばぬ。讀んでゐると、子規の歌がけっして佐々木四郎の氣持といふやうな曖昧なものを詠じたのではないことがよく解る。荒武者と悍馬との躍り上がるやうな動きをはっきりと見て、それをそのまゝはっきりした言葉にしてゐるのである。
なるほど、佐々木四郎は先驅けの勲功立てずは生きてあらじと頼朝のまへで誓ふのだが、その調子にはすこしも悲壯なものはない。勿論、感傷的なものもない。傍若無人な無邪氣さがあり、氣持のよい無頓着さがある。人々は、「あつぱれ荒涼な申しやうかな」と言ふのである。頼朝が四郎に生食をやるのも氣紛れにすぎない。無造作にやってしまふ。尤もらしい理由なぞいろいろ書いてゐる盛衰記に比べると格段である。
「金覆輪の鞍置かせ、小總の鞦かけ、白轡はげ白泡かませ、舎人あまた附たりけれども、なほ引きもためず、跳らせてこそ出來たれ」。これは佐々木四郎の出で立ちでもある。源太景季これを見て、佐々木と刺し違へ「よき侍、二人死んで、鎌倉殿に損取らせたてまつらむ」ととんだ決心をアッといふ間にしてしまふのもなかなかよい。佐々木から盗んだ馬と聞かされると「ねつたい」と大笑ひしてさっさと行ってしまふ。まるで心理が寫されてゐるといふより、隆々たる筋肉の動きが寫されてゐるやうな感じがする。事實、さうに違ひないのである。
 生食、磨墨の説明やら大手、搦手の將兵の説明やらを讀んでいくと、突然文の調子が變り、「頃は睦月二十日あまりのことなれば、比良の高根、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷うち解けて、水は折節増さりたり、白浪おびただしう漲り落ち、瀬枕おほきに瀧鳴って、逆卷く水も早かりけり、夜はすでにほのぼのと明けゆけど、川霧深くたち籠めて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず」といふふうになる。宇治川がどういふ川だかは分からないが、水の音や匂ひや冷たさははっきりと胸に來て、たちまち讀者はそのなかにゐるのである。さういふふうに讀者を獲へてしまへば、先陣の敍述はたゞの一刷毛で足りるのだ。「一文字にさつと渡いて、向の岸にぞうち上げたる」
 終りのはうもまことにいい。勇氣と意志、健康と無邪氣とが光り輝く。畠山重忠が馬を射られ、水の底を潛って岸に取りつく。「
うち上がらんとするところに、後よりものこそむずと控へたれ。誰ぞと問へば、重親と答ふ。大串か。さん候。大岸の次郎は、畠山がためには烏帽子にてぞ候ひける。あまりに水が早うて、馬をば川中よし押し流され候ひぬ。力及ばでこれまで著き參って候と言ひければ、畠山、いつもわ殿ばらがやうなる者は重忠にこそ助けられむずれと言ふまゝに、大串を掴んで岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられてたゞ直り、太刀を拔いて額に當て、大音聲を擧げて武藏の國の住人大串の次郎重親、宇治川の歩立の先陣ぞや、とぞ名乘ったる。敵も味方もこれを聞いて、一度にどっとぞ笑ひける」
込みあげてくる蟠りのない哄笑が激戰の合圖だ。これが平家といふ大音樂の精髄である。平家の人々はよく笑ひ、よく泣く。僕等は彼等自然児たちの強靱な聲帶を感ずるやうに、彼等の涙がどんなに鹽辛いかも理解する。誰も徒に泣いてはゐない。空想は彼等を泣かすことはできない。通盛卿の討ち死にを聞いた小宰相は船の上にうち伏して泣く。泣いてゐるうちに次第に物事をはっきりと見るやうになる。もしや夢ではあるまいかといふやうなさまざまな惑ひは涙とともに流れ去り、自殺の決意が目覺める。とともに、突然自然が目の前に現れる。常に在り、しかも彼女の一度も見たこともないやうな自然が。
「漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、云々」
宝井其角「平家なり太平記には月も見ず」は有名だが、この趣味人の見た月はどんな月だっただらうか覚束ない氣持がする。

 平家のあの冒頭の、今樣ふうの哀調が多くの人々を誤らせた。平家の作者の思想なり人生觀なりがそこにあると信じこんだがためである。一應、それはさうに違ひないけれども、なにも平家の思想はかくかくのものと仔細らしく取りあげてみるほど平家の作者は優れた思想家ではない。彼はたゞ當時の知識人として月竝な口を利いてゐたにすぎない。物語のなかでの唯一人の思想家重盛にしてからが、その説くところ、ほとんど矛盾撞着して、不徹底な愚につかぬものであり、それが作者から同情の念を持って描かれてゐるらしいところから推しても解るのである。作者をほんたうに動かし導いたものは、彼のよく知ってゐた當時の思想といふやうなものでなく、彼みづからはっきり知らなかった敍事詩人の傳統的な魂であった。彼みづから知らぬところに、彼がほんたうによく知りよく信じた詩魂が動いていったのであって、平家が多くの作者たちの手により、あるいは讀者たちの手によって合作され、しかも誤らなかった所以もそこにある。平家の眞正な原本を求める學者の努力は結構だが、俗本を驅逐しえたとする自負など詰まらぬことである。流布本にはいはゆる原本なるものにあるよりも美しい敍述がしばしば現れる。
平家の哀調、惑はしい言葉だ。このシンフォニイは短調で書かれてゐると云ったはうがいいのである。一種の哀調は、この作の敍事詩としての驚くべき純粹さからくるのであって、佛教思想といふやうなものから來るのではない。平家の作者たちの厭人も厭世もない詩魂からみれば、當時の無常の思想のごときは時代の儚い意匠にすぎぬ。
鎌倉の文化も風俗も手玉に取られ、人々はその頃の風俗のまゝに諸元素のやうな變らぬ強いあるものに還元され、自然のうちに織りこまれ、僕等を差し招き、眞實な囘想とはどういふものかを教へてゐる。

さあ、後は『平家物語』を原文で讀んでくれ。聲に出して讀むのだ。


 

1350/0219

Mariage de Jean II le Bon et de la veuve de Philippe de Bourgogne, Jeanne d'Auvergne.
ジャン2善良王とブルゴウニュのフィリップの後家、ジャンヌドウベルニュとの結婚

Ascendance de Jean II de France


 

1493/0219

Florence fait alliance avec la France en vue d'un partage de Milan.
フィレンチェ、ミラノの分割のためにフランスと同盟
{Leonard da Vinci 145219 と關係深さうな記事

1674/0219

England and the Netherlands sign the Treaty of Westminster, ending the Third Anglo-Dutch War.
第三次となる Treaty of Westminster 締結で、第三次英蘭(England-Netherland)戰爭が終結
A provision of the agreement transfers the Dutch colony of New Amsterdam to England, and it is renamed New York.

1771/0219

Charles Messier 173017 が「楕圓銀河 M49」を發見。

1819/0219

British explorer William Smith discovers the South Shetland Islands, and claims them in the name of King George III.

1846/0219

Texas the newly formed Texas state government is officially installed. The Republic of Texas government officially transfers power to the State of Texas government following the annexation of Texas by the United States.
テキサス共和國がアメリカ合衆國のテキサス州に主權を公式に移管。

1865/0219[元治01/0124]:長崎に大浦大天主堂が完成。

創建時の大浦天主堂

 

1878/0219:エヂソン、蓄音機、發明

Thomas Edison patents the phonograph(レコウドプレイヤ=蓄音機).
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/EdisonPhonograph.jpg 1878: Edison Home Phonograph (von 1900

1884/0219:

More than sixty tornadoes strike the Southern United States, one of the largest tornado outbreaks in U.S. history.
アメリカ合衆國史上最大級の龍卷が數十以上も南部アメリカを襲ふ。

1913/0219:史上最も就任期間が短かった大統領

Pedro Lascuráin becomes President of Mexico for 45 minutes; this is the shortest term to date of any person as president of any country.

1915/0219:World War I:

The first naval attack on the Dardanelles begins when a strong Anglo-French task force bombards Ottoman artillery along the coast of Gallipoli.


ガリポリの戰:当時国家として末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじた連合軍は短期決戦を想定して挑んだ。しかし、のちに新生トルコ共和国の初代大統領に就任することになるオスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクの活躍をはじめ、敵の予想外の頑強な抵抗に遭った連合軍は多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは陸・海・空三軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言える。

1942/0219:World War II: 日本軍、オウストラリア空襲

Nearly 250 Japanese warplanes attack the northern Australian city of Darwin killing 243 people.
日本のオーストラリア空襲: 日本海軍の艦載機がオーストラリアのダーウィンを空襲、243名の死者を出す。

1942/0219:World War II:

United States President Franklin D. Roosevelt signs the executive order 9066, allowing the United States military to relocate Japanese Americans to internment camps.
日系人の強制収容: フランクリン・ルーズベルト米大統領が敵性外国人の強制収容を可能とする大統領令9066号(防衛のための強制移動の權限)に署名

1943/0219:World War II: カセリネ峠の戰

Battle of Kasserine Pass in Tunisia begins.
https://is.gd/j8vaD7

1945[昭和20]/0219::World War II: Battle of Iwo Jima:

硫黄島の戰:海兵隊を主力とするアメリカ軍が硫黄島に上陸、開始。

:1944/08、グアム戰を制した米軍は日本本土攻略實行のために、以後、1220にフィリピンのレイテ島、翌年の0220にはルソン島もしくは0301に臺灣上陸を計画立案、が、米海軍太平洋艦隊司令部では、臺灣は戰略的にさほど意味がないとして除外した。
:レイテ沖の海戦で大敗北を喫した日本海軍の戰鬪能力は衰弱し、實際的にも臺灣攻略の價値は低下したが、米陸軍のDouglas MacArthur 188064 は臺灣攻略を主張して、統合参謀本部は陸海の眞っ向對立となった。
:そんななか、陸軍航空軍のHアアノルドがより効果的かつ効率的な日本本土の戦略爆撃の可能性として硫黄島を指摘、それを採用して、1002に硫黄島攻略してその40日後に沖縄上陸、をアメリカ軍全體の方針とした。
:これを受けて、この日、アメリカ海兵隊の硫黄島上陸作戰が艦艇と艦載機の砲撃支援のもとに始まった。
:日本軍の栗林忠道189145中將は陣地死守の持久戦をおこなひ、激戰を演じたが、ほゞ一ヶ月後の0317に大勢は決した。
:0321、大本營發表は0317に硫黄島と玉碎と公表する。だが、その後も散發的な戦闘は繰り返され、栗林以下三百名余が最後の総攻撃を敢行し、日本軍は壊滅し、硫黄島にアメリカの國旗が立てられた。
:日本軍の守備兵力 20933名のうち 20129名が戰死または戦闘中の行方不明。アメリカ軍の被害は、戰死 6821名、戦傷 21865名。

:栗林中將の防衛戰術
:1945/01に發令された最終作戰は「陣地死守と強力な宗吾支援」を要求したもので、從來の攻撃偏重の日本軍の戰術を轉換するものであった。兵力の大きな損耗につながる防護された敵陣への肉團攻撃萬歳攻撃は嚴禁された。また、彼はみづから作った『敢闘の誓』を守備隊員全員に配布、戦闘方針を徹底させた。

:栗林中將の最期は、一説には敵迫撃砲彈の破片を大腿部に受け前線から避退、近くの洞穴で中根中佐らと自決したとされてゐる。戦闘終結後、海兵隊は栗林中將の遺體を探したが、栗林は軍服の階級章や軍刀の刀緒、所持品一切、身分を確認する物を外して最期の戦闘に出ていっために確認できなかった。

:戰後悲話
:組織的な戦闘が終り、アメリカ軍が硫黄島を制壓したが、日本軍にはわづかな生存者がゐた。彼等は地下陣地に潜伏してゐた。米軍は投降を促し、一部はそれに應じ、應じなかった者には米軍は掃討作戦をおこなひ、日本兵潛伏の可能性がある濠の出入口を埋め潰していった。
:1949/0102、硫黄島に潛伏してゐた日本兵二名が米軍に投降した。海軍所屬の二人は、終戰後も洞穴などに隠れて過ごしてゐるうちに四年近くが過ぎてしまった。兩名の話によれば、敗戰から一年半が過ぎた頃に、米兵が捨てたであらう雜誌を拾って見たところ、東京不忍池で米兵と日本女が一緒にボウトを漕いでゐる寫眞を見て、日本敗戰を知り衝撃を受けたといふ。二人は0122に日本に帰還した。だが、これからがほんたうの悲劇となる。
:このうちの一人、二島兵曹だった若いほうの岩手県出身の二十五歳の青年は「硫黄島に日記を忘れてきた。本を出版するためにどうしても日記が必要だ」と米軍に申しこみ、同年0507米軍機で硫黄島に行った。だが、日記はどうしても見付からず、この二島兵曹だった男は、擂鉢山の火口から四百米ほど離れた場所から「萬歳」を叫んで投身自殺を遂げた。この青年は地元に戻った後、周圍の者に「生きて歸ってきて申しわけない」「硫黄島に日記を取りに行って、見付からなかったら日本へは戻らない」などと洩らしてゐた。最初からそのつもりであったのかも知れない。


私がこの硫黄島の戦闘に強い關心を持つのは、硫黄島に守備兵となったなかに折口信夫188753の養子とするまで愛した藤井春洋がゐたからだ。
この事については、『折口信夫の「きさらぎの月」』
と題して、このブログでも書いた。→
硫黄島の戰場にも煌々と輝いてゐるであらう冬の月を見上げて、歌人でもあった折口信夫の絶唱は口を衝いた。
≫ きさらぎのはつかの空の 月ふかし。まだ生きて 子はたたかふらむか
その時、硫黄島はまさに激戰死鬪の眞っ最中であった。

1946[昭和21]/0219

昭和天皇日本全國巡幸が始まる。


1946[昭和21]/0219

部落解放全國委員會、結成。

1952[昭和27]/0219

青梅事件。國鐵青梅線の小作驛で發生した列車暴走と衝突事故。冤罪事件。

1954[昭和29]/0219

藏前國技館を使って、日本初の本格的なプロレス國際試合が興行。
メインイベントは力道山木村政彦vsシャープ兄弟


1972[昭和47]/0219::連合赤軍事件:淺間山荘事件、發生。

九日間かかって、0228、立て籠もってゐた連合赤軍メンバ五人を逮捕。


1976/0219

Executive Order 9066, which led to the relocation of Japanese Americans to internment camps, is rescinded by President Gerald Ford's Proclamation 4417
{1942の同月同日に Franklin Roosevelt 188245 が制定した(防衛のための強制移動の権限)の廢止。

2008[平成20]/0219

イージス鑑『あたご』が漁船と衝突事故を起こす。


 
 
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